ドデカヘドロン・インタビュー
2001年8月に、当時のソニーミュージックのブロードバンド・サイト”MORRICH”の中で提供されていた”ドデカヘドロン”
という番組の中で、裕美さんが2回にわたってトータルで約一時間のインタビューを受けました。
このインタビューは、当HPを立ち上げた以降では特に印象に残ったものだったので、文字起こししてみました。


*前編

聞き手:ソニーミュージック 大崎尊生氏


(オープニング)
ドデカヘドロンの時間です。ドデカヘドロンというのは、ギリシャ語で”12面体”。ここではアーティストのさまざまな活動、それから
心の襞。それを12面体になぞらえてみなさんにお伝えしようと思います。

聞き手:
今日は太田裕美さんをお迎えして、ドデカヘドロンをお送りいたします。
太田裕美さんの12面体といえば、「木綿のハンカチーフ」、「赤いハイヒール」、「しあわせ未満」、ある時は恋人たちの風景の
灯台の役割を果たした人でもありますけど、その後お母さんでもあり、27年”うた歌い”の現役を続けてこられています。
たくさんの多面体が皆さんに伝えられることと思います。そんな時間にしたいと思います。

(タイトルビデオ 神様のいたずら)

聞き手:
ドデカヘドロン、今月はゲストに太田裕美さんをお迎えしました。
えーっと、夏のお母さんは忙しいって話をしていただいてもいいですか? この収録が7月の終わりの方なんですけども、そうすると
もう子供たちが朝から家の中でバタバタと走り回っている?

太田:
今日はねえ、21日から2人とも合宿に行ってるんですよ、学校の。で、上の子が5泊6日、下の子が3泊4日で、一応一年間に一回
ある天国の日々...

聞き手:
母親の一番贅沢な日々?

太田:
はい、なんですけど、ずーっと仕事してますね。

聞き手:
じゃあ、今日は自分の朝ごはんを作って、食事して...

太田:
そうそうそう。一応旦那のも作りました。旦那のも作って、一応自分のも作って...

聞き手:
今日も朝から30度を越えてますけど。

太田:
暑いですよねえ。

聞き手:
ていう、お母さんの話も聞きながらというふうに思っています。えっと、太田裕美さんというのは、私にとってほんとに27年前というと
勲章ですよね(笑)。「雨だれ」から始まって、まだこの音楽の仕事をする前ですから、ほんとにテレビのチャンネルをパチパチやってる頃
からファンだったんですけど。でもこういうふうに、ただファンからスタッフの側にまわって、スタッフとして太田裕美さんを見るように
なってからそれでも十数年は経っていて。で、その中で太田裕美さんのすごくタフなところ、うた歌いとしての。とてもスタッフとしても
感動しているところがあって、そんな話から聞いていきたいと今日は思ってます。と言いつつ、ざっくばらんによろしくお願いします。

太田:
お願いします。

聞き手:
私が太田裕美さんが面白いなと思ったのは、いわゆる「赤いハイヒール」「木綿のハンカチーフ」っていう絶えずテレビから発信していく
ヒット曲を持ちながらコンサートの本数が当時ものすごく多い人だった。しかも歌謡ショーというのとはちょっと一線を画してて、すごく
面白い人たちとコラボレーションに近いコンサートのやり方を。記録を見てると森田公一さん、トップギャランとも多かったですけど、
その合間に遠藤賢司さんがいたりとか。

太田:
遠藤さんもいましたねえ。

聞き手:
いわゆるアンダーグラウンド・フォークのある意味で王子さまみたいな。そんなこうコンサートの思い出を語ってもらえたらな、と思うん
ですけれども。

太田:
そうですねえ。いちばん最初のデビューする前にいちばん最初のステージが、学園祭のコンサートだったんですよ。10月の末で。
とにかく太田裕美っていう歌手は、いままでないタイプの音楽をやっていこうっていう、みんなで話し合いになって。だからデビュー曲の
「雨だれ」も聞きようによっては歌謡曲であり、聞きようによってはフォークであり。

聞き手:
そうですね。弾き語りで。

太田:
ええ。聞きようによってはクラシックの香りもあって、っていう今までにないサウンド作りで、活動もその時ちょうどコンサートの色んな
絡みもあってフォーク系の方たちと一緒に学園祭とか回らせてもらうってことで、フォーク系のコンサートを中心とした、そしてアルバムを
しっかり作っていく、アルバム作りもちゃんとやって、ていう活動と、なおかつ所属していた会社が渡辺プロダクションっていうところ
だったんですごい芸能プロのだい大手で、会社がやっているいわゆる歌謡曲の世界のバラエティもあったし、そういうものにもどんどん
テレビにも出ていくし、ラジオにも出ていって、とにかく色んなことをやろうという感じだったんですよね。で、そのまずデビューは学園祭で、
とにかくその日誰、たぶんねえ学園祭デビューの頃は、山本コータローさんとウィークエンドとか、猫とか、あの辺の方たちとよくご一緒
したと思うんですけど、そのいちばん最初のデビューステージは誰と一緒かわかんなかったけど、とにかくソニーの吉田拓郎さんの担当の
野口健作さんていう人がやっぱり私のスタッフでいてくれてて、いちばん最初のステージの時に、とにかく台本とか無いじゃないですか、
そういうフォークコンサートとかは。自分で20分なら20分のステージを歌を歌うだけじゃなくて何かしゃべんなきゃいけないから、
野口さんが、まっ、だいたいこんなことしゃべればいいんだよって、台本じゃないけどメモを書いてくれて、それが”始めまして、太田
裕美です”ってやつで、”今度ね11月1日にCBSソニーから「雨だれ」って曲でデビューしま〜す”ていうようなことを書いてくれて、
こんなことを言えばいいんだよって教えてくれて、それがいちばん最初のステージだったんですね。もう10日ぐらい前かな。で、それが
最初で、デビュー前後がぶわ〜っと学園祭、その頃はまだほんとに出る前だから、学生の人は自分たちのメインのシンガーとは全然違う、
見たこともない子が出てきたわけでしょ。で、な、なんだという感じだったんですけど、だから前座の前座という感じで出させてもらって、
そういう形でスタートして、学園祭がとにかく多かったですよね。デビューして、2年、3年、4年とずうっともうほんとに学園祭すごく
多くて、全国行きましたね。あたし自身もちょうど19のデビューだったんで、大学生と同じ世代だから、そういう意味ではとても親しみ深い、
でもイメージはちょっと子供っぽいから、妹っぽい感じがあったらしくて、何かいっぱいいろんなところに呼んでもらって。それと並んで
いわゆるジョイント・コンサートという形で色んな方と組んで回ったりしたんですけど。風とかね、それからBUZZとか、やっぱりフォーク
系の方が多かったですよね。自分の音楽は歌謡曲とフォークの中間て感じだったんですけど、でもやっぱりアルバムとかはもうかなり
フォークっぽい感じでもあったので、デビュー当時なんかは私のピアノとギターの子が一人いてくれて、2人でステージとかもあったんで、
かなりフォークっぽいステージングでやってたんで...

(パパとあなたの影ぼうし ビデオ)

聞き手:
その辺の頃に、いちばん最初に野口さんがミニ台本を作ってくれたという話ですけど、たぶんいくつかステージをこなしていくうちに
もっと自由なしゃべりでいいんだ...

太田:
うんうん、何かねえそうですね、かなりねえ、変でしたね、しゃべり(笑)。今でもあんまりちゃんとしてないんですけど、当時のその
例の加納さんがね、今bitmusicになってますけど、ここ何年かのディレクターで私のCD作ってくれた人なんですけど、加納さんが
めちゃくちゃコアな性格で、昔の残っていたほんとにデビュー当時のコンサートのしゃべりをMC集みたいにちっちゃいCDにして
ミニアルバムの付録みたいな感じで作ったりしてたんですよ。そういうの聴くとねえ、何かもうすごいですよ、しゃべりがもうひっくり
返りますねえ、何か。

聞き手:
何かあの、個人用にプレゼントしてくれるんならきっとうれしいもんなんでしょうけど、それが人様の手に渡るとなるとちょっと身の毛が
よだつ感じが。

太田:
そうそうそう、それを公に私はされてるんですごいちょっと、もうひっくり返っちゃうんですけど、何か”別人28号”みたいな感じ。
でも本人はねえ、作ってるっていう意識よりもやっぱり緊張して別人になっちゃってるんですよね。だから、作ってたわけではないん
ですけど、かなり違う人格みたいな、ありますよね。

聞き手:
あの、あまりにも昔の話、あんまりつまびらかも妙な具合なんですけど、「雨だれ」から始まってクラシックの匂いがあり、深窓の令嬢の
ようなイメージってのがブラウン管から伝わってきたじゃないですか。それからだいぶ後になりますけども、しゃべり口調を聞いていると
とっても下町のお姉ちゃんていう。

太田:
はいはい、そうですそうです。すごい性格はねえ、めちゃくちゃガラッパチなんですよ、もう男っぽいし。だから今でもね、デビュー当時
からすごいファンでしたとかいう、お仕事ですごい会うんですよね。ものすごいファンだったんですよって方。めちゃくちゃ会うんですよ。
やっぱり30代、40代で今お仕事でバリバリ第一線って方多いじゃないですか。それはもう私のファン層になる人がちょうど合うんで、
すごくイメージが違うとか言われて、もっと静かな、おとなしい、女らしい人だと思いましたとか言われて、え〜そうなんですっていう
感じで。

聞き手:
でもほっといてくれって感じで。

太田:
いや、ほっといてくれっていうか、だましてスミマセンて感じ(笑)。実はこういう性格なんですみたいな感じで。

聞き手:
コンサートが多いと、やっぱり人の顔見ながら歌っていく機会、で決してこういうふうにカメラのフィルタを通すんじゃなくて、自分の
眼でパッと相手が、あっ今これを聴いてくれている、心動いたかもしれない、って一瞬一瞬ていうのが客との間でコミュニケーションて
暗黙のうちにとれるじゃないですか。で、そういうコミュニケーションの上に自分の歌を、自分の作詞作曲したものを含めですけど、
置いていく、その時の人たちの喜んでいる顔とかいろんな表情を汲み取っていく、それがすごく太田裕美さんの中で長くあったことが
きっと今の自分の活動、すごい自由にしてるんじゃないかなていう気がすごくするんですよ。朝、パッと起きて、さっ今日は子供いないし
歌の仕事行ってくるぞ、っていう主婦としてもたぶん母親としても、うた歌いとしてもすごく自由な場所を手に入れている、なんかその
基礎っていうのがそのコンサートをずっと長くやってたことかなと、気が。

太田:
どうでしょうね、そういう風には思ったことないですけどねえ。申し訳ないけど、あの〜コンサートでねえ、それって一人ひとりの心の
機微を、こう、測れるような余裕はなかったですよ。

聞き手:はあ。

太田:
自分の中には。すごくこの日はすごい気持ちよく歌えたとかね、なんか終わったらすごい充実したとか、そういうことはいっぱいあり
ましたけど、あと、あ〜今日何かうまくいかなかったな、でも一人ひとりの表情を見るとか、こんな風に思ってくれてるのかなとか、
その瞬間、コンサートの瞬間はそこまでの余裕はなかったですね。今でもねえ、まだないですね。ないですよ。

聞き手:
そうなんだ。元々そういう風なのはかまわないよって性格?

太田:
かも(笑)。それもあるかもしれないですね。何かあの〜、自分勝手なのかもね。こうやってぶわっと出して、あとはお好きに感じてくだ
さい、ていうのかもしれないですね。

聞き手:
そうか...

太田:
でもね、最近の気持ちの自由さっていうのは、やっぱり色んなことを経験してきたから今あるんだと思うんですよ。だからコンサート
だけのおかげじゃない、色んな活動があって、色んな人に出会って、色んな生活をして、色んな社会を見て、その中でまあ今の自分が
あって、何か気がついたら自由な感じ、ではあるなとは思いますけど。

聞き手:
「上弦の月」とか、今回のこんのさんとやられてる「パパとあなたの影ぼうし」ていう、あの辺だとすぐ今の太田さんに近い、何か日常
の暮らしているサイクルがそのまんま全部歌に置き換えられてるっていう感じがするんですけど、やっぱりあの辺の自由さってすごく
気持ちいいなって気がします?

太田:
そうですね。心情とか、心情的にとか、あと音楽的にもかなり原点に帰ってるかもしれませんね。だからそういう意味ではすごく自分に
近いものが自然に音楽とかに反映されてるかもしれませんね。

聞き手:
長い27年の話の方へ一回戻ると、ニューヨークへ一回休みを取られて行って、そこのところからとても生き生きした表情がたくさん
出てくるようになって、たぶんあそこで一回太田裕美としては自分の生き方チェンジしたぞ、ていうそういう実感てやっぱりあそこに?

太田:
自分の人生の中でこうやって考えた時に、やっぱりすごく大きな節目っていうのが2つあって、その1つがニューヨークの生活、ていう
かニューヨークへ行ったってことですね、きっと。ニューヨークへ行ったってことと、それから子供を持ったってこと。これはすごい
大きな出来事だったので自分の中ではね。わりとねえ、あんまり性格的に、何て言うんですかね、普段はガサガサしてるんですけど
でも大まかなところではそんなに何が起きても動じないっていうか、あんまりあわてないんですよね。細かいことは慌てん坊なんですけど。
そういう、何があっても私は私よみたいな性格がすごく小さい時からあったような気がするんですけど。だから例えば人を好きになるとか
そういうことで私は変わらないとか、こういう音楽を歌ってるから私はこうなるとか、そういうのじゃなくて何か色んなものに左右され
ないで、とにかく自分は自分で、ていう思いがすごい強かったのが、ニューヨークに行ったことと、子供を持ったってことはほんとに
自分の想像以上にものすごい自分に影響を与えてくれて、その2つが無かったら今の私はいない。ほんとに想像つかない、どんな変な
人間になってたかなと思いますよ。ちょっと想像つかないですね。存在が思い浮かばないですね。

(Candy ビデオ)

聞き手:
ニューヨークって何でした?っていう質問も変なんですけど、一回もう自分があそこで、それまでの自分をチャラにするたっぷりの時間
だったんだって感じですか?

太田:
そうですね。結局ねリセットていう感じではないんですよね。今まで生きてきた、例えば27とかに行きましたから、27年間を無くす
てことはありえないでしょ。(身振り手振りを加えて)だけど、こう積み重ねてきた27年の上に、その27年間自分が思っていたよりも
もっと大きい宝物てのを積み重ねることはできると思うのね。これは無くすことはできないけど。そこにもっと、例えばこの中が自分の
中では納得できなかったこととか、もっとこうしなくちゃいけなかったなと思うようなこととか、それをフォローしてくれるような思い
とかは積み重ねることはできるでしょ。そういうのができたんだと思うの、ニューヨークの生活はね。歌手としてよりも人間として着実に
大人になっていくためには色んなことを経験しなくちゃいけないんだっていうようなことを、すべてではないけど、そういうことの第一歩を
ニューヨーク生活は教えてくれた、みたいなところがあって。

聞き手:
ちょうどそれまでていうのが、前のスタッフってみんな一流の大人たちじゃないですか。で、たぶんその当時から一流の大人だったと
思うんですよ。例えばディレクターの白川さん、藤岡さんとか。で今でも下手すると手こずるほど立派な大人たちじゃないですか。
だからその立派な大人たちが周りにぎしっと固まってるていう、その人たちと会うということもすごいことなんだ、なんかそういう
星のめぐりを持ってること自体がすごいとも思うんですけど、逆にそこから今度は自由になってみせるぞってのも、ものすごい大変な
ことだったんじゃないかなって。

太田:
自由になってみせるぞなんてことは全然思ってなくて。そうですね、人間はきっと本当は生まれた時から自由だから、本当の自由を
知るための旅の一歩って感じかもしれない、ですね。

聞き手:
なるほど...

太田:
でもとにかく、デビューした時からほんとにすごいいいスタッフで、もうみんなが支えてくれて両脇ぶわっと固めてくれて、ほんとに
音楽の方でも松本隆さんと筒美京平先生がいてね、こう支えてくれてっていうところで、何か自分はあんまり考えてなかったんですよね。
だからほんとにみんながこうしたらいいんじゃない、ああしたらいいんじゃないっていうままに、うん、そうだね、そうだねって感じで
能天気な感じできちゃって。自分の中では今でもその能天気な性格は変わってませんけど、少しはやっぱりニューヨーク行ってからは
もう少しちゃんと考えなくちゃっていうようなことを覚えましたね。だからそういう意味でも歌手としてもちゃんと一人前、独り立ち
するための大切なステップだった、ですね、今思うとね。ニューヨークに行った時はね、別にもうその時はほんとに、ニューヨークから
帰った時にまた歌手としてできる自信もなかったし、予定はなかったんですよ、自分の中ではね。とにかく今までの太田裕美ではなくて、
今までの太田裕美は自分の中では忘れてね、やっぱりほんとに原点にもどって、自分にとって音楽とは何かとか、自分が歌うことの意味
とか、そういうのをやっぱりちゃんと考えたいなっていうのがあったので。そういう意味ではほんとに何かすごく大きな出来事でしたけどね。

聞き手:
今までの2つ大きいことがあるっていったもうひとつ、子供。あの、結婚っていうのはそれほど大きくなく、やっぱり子供なんでしょうか。

太田:
うん、結婚は自分の中では別にたいしたことじゃないと思ってたんで、紙切れ一枚。だから別に結婚したいと全く思ったことはなくて、
別に結婚願望はなかったですからね。ただほんとに、普通の妙齢の男女が出会って真面目な付き合いをしたら、それはきっとやっぱり
社会的に、いわゆる一般世間的には結婚に行くって形であって、でも別に好きな人がいたら一緒に住むだけでもいいんじゃないかと
私なんかは思っていたんで、でもまあ結婚という形をとっていても紙切れ一枚のもんじゃない、そういう気持ちがあったので、あんまり
大きなことではなかったんですよ。自分が結婚するために選んだ人っていうのも今までの私を認めてくれるというかね、自分が君と
結婚するために、じゃ君は僕のためにこうなって欲しいとか、ああなって欲しいっていうそういうのを押し付ける人ではなかったので
今のあるがままの私を受け入れてくれて、そのままでいてくれていいよと言ってくれるんじゃないかな、と思う人と結婚したんで。
だから自分自身が変わる必要もないし無理してね、そういう意味では自分の今までの世界もキープできるし、相手の世界もキープしてって
いう、まあ大人の、もう30からの結婚ですからね、そんなに自分が不自然に変わる必要がない。今の生活をそのままでいいんだなって
いう中での結婚だったので自分の中では別にすごく大きな出来事っていう感じではないんですよね。


後編へ